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山崎貴「ALWAYS 続・三丁目の夕日」~成瀬巳喜男とマクガフィンの彼方へ 2007.11.7
終盤、福岡へ去って行く娘に、薬師丸ひろ子がクリームの瓶を手渡すシーンがある。ここで娘は、それまで自分の世話をしてくれた薬師丸に対して「おかあさん、、」と呟く。この娘は、血のつながりのない薬師丸に対して、「亡き母」の面影を見ていたのだろうか。
では、いつ、どこで面影を「見た」のか。
「物語的」な言い方をするならば、薬師丸が、まるで母親のように自分と接してくれたその全体を通して「母を見た」、となるのだろうし、それを間違いだと断定することは出来ない。だが映画的に見たならば、それはどうも面白くなさそうだ。ここでは手渡された「クリーム」というものが、映画的、視覚的、音声的、そして視線のメロドラマとして決定的な意味を持っているのだ。
画面は中盤にまで遡る。薬師丸の家に預けられた娘が、なかなか家族と馴染んでくれない。薬師丸はそんな娘に、色々な仕事を言いつけたり、一緒に銭湯に行ったりしてやるのだが、そうした流れの中で、薬師丸は、台所で仕事をしたあと、娘の手に「クリーム」を塗ってやるのである。
ここを山崎貴はどうやって処理したか。この場面の視覚的処理こそが、あの終盤の別れのシーンの「おかあさん、、」という音声的露呈とセットとなり、極めて重要なのだ。
薬師丸は娘の手に、一生懸命クリームを塗ってやる。その薬師丸の姿をキャメラはまず娘の側から映し出している。だがショットは次に、薬師丸の背後から切り返され、クリームを塗ってもらっている娘の顔の方を捉え始める。
ここで娘の視線は、クリームを塗られている「手」には向けられていない。娘の視線は、クリームを一生懸命塗っている「薬師丸の顔」一点に集中しているのだ。私はこの瞬間、この映画のすべてを許し、一言「ああ、成瀬している、、」と呟き、泣いた。
「この手法」こそ、成瀬巳喜男が40年もの間、自らの作品の画面に露呈させ続けた「視線」のゲームなのである。
この場合、実は「クリーム」でなくとも良いのだし、ラストで娘の手に手渡されるのも「クリーム」である必然性は何処にもない。だが、この薬師丸を見つめる「娘の視線」によって、その後、薬師丸から娘へと手渡されるものは、絶対に「クリーム」でなければならない事態へと変化したのである。何故「クリーム」なのだろう。
映画的に見たならば、「クリーム」は、薬師丸をして、「母の仕事」へと「集中」させるために選択された小道具なのだ。つまり「マクガフィン」である。
「マクガフィン」とはヒッチコックとトリュフォーが発明した素晴らしい映画用語だが、それはそれ自体に意味があるのではなく、それが何かを引き起こすことによってのみ意味がある「きっかけ」のようなものなのだ。
「クリーム」にはそれ自体に意味があるのではない。薬師丸をして「母の仕事」に「集中」させるためにのみ意味があるのだ。「クリームを塗る」という行為が、手と手の触れ合いを通じての「集中」という、映画的出来事を引き起こす、それにおいてのみクリームには意味がある。
では何故「集中」させることが映画的に必要なのか。それは、「集中」させることによって、薬師丸は「見られている事を知らない」状態へと突入するからである。
一生懸命クリームを塗る薬師丸は、娘の視線をまったく意識していない。そんな薬師丸の「見られている事を知らない」顔を、娘は必死に見ている。「盗み見」しているのだ。そして映画は、それまでは、何をやっても一向に解決しなかった二人の関係が、この「盗み見」を契機に一気に解決する。
他人に「見られている事を知らない」人間は、「ほんとう」の自分を曝け出す。気取らず、飾らず「ほんとうの自分」を露呈させる。これこそ、映画研究塾における次回成瀬論文の主要テーマでもあるのだが、薬師丸は、「クリームを塗る」という行為に「集中」しているがため、娘に顔を「見られている事を知らない」。その薬師丸を、自分の手に「一生懸命」クリームを塗っている薬師丸の「見られている事を知らない」顔を、娘は「盗み見」した。娘は、その顔に、何を見たのだろう。
ラストの別れのシーンで娘は、薬師丸の差し出した「クリーム」を見て、即座に、「おかあさん、、」と反応している。いや、して「しまって」いる。
『映画とは、「外面」によって「内面の感情」をもたらすものでなくてはならない』とゴダールは言ったが、この「おかあさん、、」という言葉=娘の「内面」から「外面」へのほとばしりは、「クリーム」という「マクガフィン」を通して達成された「盗み見」によって娘の「内」に蓄積された「母」という「ほんとう」の「内的概念」が、再度「クリーム」という思い出の事物を通して一気に「外」へと横断し、「おかあさん、、」という音声として内部から外部へと反射的に露呈したのである。
「盗み見」によって一瞬露呈した「母の姿」を、娘はしっかり覚えていたのだ。だからこそ、別れ際差し出された「クリーム」という思い出の物体に娘は、即座に「おかあさん、、」と言ってしまったのである。マクガフィンと視線との織り成す映画の感動、このすべては、なんら「言葉」によって「説明」されていない。すべてはワンクッション置かれた視覚と音声によって瞬間的に露呈し、過ぎ去ってゆくのである。
成瀬巳喜男の映画における人々の「視線」を、目を皿のようにして見てみるとよい。成瀬巳喜男の映画とは、その大部分が「見られている事を知らない」人間と、彼を「盗み見」する者達によって織り成される「人間関係」の深層におけるメロドラマなのである。これについては次回論文で深く検証する。
例えば「乱れる」(1964)において、配達帰りに大雨に降られた加山雄三のびしょ濡れのレインコートを高峰秀子が脱がしてやるシーンを見てみよう。「一生懸命」レインコートを脱がしている高峰秀子の顔を、加山雄三が「盗み見ている」ショットを成瀬巳喜男は露骨に挿入している。レインコートを脱がすことに「集中している」高峰秀子は、ふと加山雄三の視線が自分の顔を捉えていることに気付き、あわてて身を離すのである。
ここでは①「大雨」→②「びしょ濡れ」→③「高峰秀子が一生懸命レインコートを脱がしてやる」→④「加山雄三が高峰秀子の顔を盗み見」する、というのが物語の流れだとすると、映画的な思考の流れは、④→③→②→①と、逆方向から開始されている。こういう思考の流れをして私は「マクガフィン的」と定義するのだが、④加山雄三が高峰秀子を「盗み見」をするショットを入れたい→③そのためには、高峰秀子をして何かに「集中」させたい→②「びしょ濡れのレインコート」を高峰秀子に脱がせることにしよう→①「大雨」を降らせるしかない、、、これが成瀬巳喜男の「思考の流れ」である。ゴダールが、「それは血でなく、赤だ」というのも、同じような趣旨のことであるだろう。「あらすじを辿る」という思考回路(①→②→③→④)では、決して「映画」の素晴らしさは味わえないのである。
成瀬巳喜男の映画とは、この「見られている事を知らない」状態を作出するための一つの方法(「マクガフィン)」である。詳しくは、次回の論文をお読み頂きたい。
さて、前作では、三浦友和の家族のシークエンスを、溝口的(「雨月物語」)に処理してまんまと蓮實重彦を泣かせた山崎貴は(私もあそこで泣いたが、私の場合「雨月物語」的幽霊でなく、「プリースト判事」的写真で泣いたのだが)、今回もまた山崎は、堤の同窓会のシークエンスで「雨月物語」をやって、また蓮實重彦を泣かしたのかと、想像するだけでも笑えるのだが、今回は、そこへ、「振り向くこと」を含めた「成瀬巳喜男」を持って来ている。次は山中で責めて来るのではないだろうか(何となく今回、山中的省略を感じさせるギャグが入っていたが、、)。
この映画は、「良い部分」と「悪い部分」が、極めて明確に交錯している。
相も変らぬ照明のまずさは泣きたくなるし、鈴木則文映画の人間の「肌のほてり」を瞳に焼き付けている者としては、風呂上りの娘の肌のメーキャップのまずさなどは断じて許せない。セリフやカッティングのテンポが悪く冗長で、現代映画の悪い部分を思い切り引きずっているこの作品は、迷わず「ワーストテン」に入れても文句のない作品である。
だが最後の30分が決定的に素晴らしいのだ。前回同様、「いきなり接近し無言で殴る」という弛まぬ運動精神だとか、手紙に書かれた「ありがとう」の文字による、訳もなく美しい「視覚的」な露呈、転がった粗末な「いろえんぴつ」の視覚的記憶とプレゼントされた新しい「いろえんぴつ」の視覚的齟齬の醸し出す引き裂かれたようなエモーション、そして何より、全員が本を出して「読んでみろ」という、この「読むこと」という、「書かれたもの」に対する想像を刺激する信じ難き感動をここまで見事に描いて見せたこの作品は、同時に「ベストテン」にも値するだろう。列車の中で小説を「読んでいる」小雪の「泣き顔」は、「書かれたもの」から「ワンクッション」置かれた鏡像として私を打ちのめした。その小雪が三丁目に帰って来た時も、山崎貴は、男の子の顔の表情の変化という、「ワンクッション」置いた「鏡像」によって「帰郷」を処理している(★注①)。重要な部分の多くが省略や、我々の想像力に任せる視覚・音声によって映画的に処理されている。こうした小さな細部の積み重ねこそ、現代映画が忘れた「感受性」なのである。
結局のところ、映画とは、かくも簡単で、かくも難しいということなのだろうか。
★注①
ロベール・ブレッソンはこう書いている「先日、私はノートルダム寺院の公園を横切る途中で一人の男とすれ違ったのだが、そのとき、私の背後にあって私には見えない何ものかを捉えた彼の眼が、突然ぱっと明るくなった。彼が走り寄っていった若い女と小さな子供に、もし、私もまた彼と同時に気づいていたならば、この幸福な顔は私をこれほど強くうちはしなかっただろう。恐らく、それに注意を向けさえしなかったことだろう」(「シネマトグラフ覚書」139、、
ブレッソンは、男の表情の変化をまず見た後で、その対象となった女と子供を見ることが、感動的だと言っているのであり、決してその逆であってはならないと書いている。「直接」女と子供を見たあとに、男の喜ぶ顔を見ても面白くも何ともないのだと。そのようなものは「見るに値しない」とも書いている。男の表情の変化という、ワンクッション(ひょっとするとこれはスリー・クッションにも相当する)を入れる、つまりそれが「映画」なのだと。
ところが最近の「作家」さんたちには、どうもこうした感覚というものが判らないらしい。それでいて作家気取りのバカが巷には氾濫している。
そうした中で、「直接」小雪を見せるのではなく、まず子供の表情の変化、という「ワンクッション」入れた山崎貴は、少なくとも「映画」と親和的な何かであるだろう。
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